No.29 - 2014.07.28
古代東海道
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次の式年遷宮は2033年か。う〜ん、生きてるうちに見に行ってればよかったかなぁ…。でも新聞の写真を見ると警備官の洋装がなんとも無粋でしたねぇ。今回は62回目。第1回は1300年も前の持統4年(690年)だそうです(伊勢神宮のホームページ)。奈良時代の直前ですね。
このところ奈良時代に凝っています。というのも葛飾の四ツ木で「古代東海道」の看板を見たからです。道は四ツ木から東にむかうと下総の国府(市川の国府台)へ、西は隅田川を渡る所まで案内しています。
一昨年の秋に看板の案内そって四ツ木から西へむかって歩きました。すぐに大正時代に掘った荒川(報水路)にぶつかり、四ツ木橋を迂回して鐘ヶ淵へ。駅前の踏切を抜けて昭和時代の防災団地をくぐって梅若塚にたどり着きました。ここまでは看板の案内どおり。隅田川を渡ると石浜神社に「いざ言問わむ…」の石碑がありました。平安時代の在原業平はこの古代東海道を歩いたんだろうなぁ(伊勢物語の東下り)と勝手に想像しました。まだ江戸の町はないから日本橋もスカイツリーの下の業平橋も通ってないでしょうね業平さんは…。
とある本によると、奈良時代の国府を結ぶ街道は幅6〜12mもある大道で、地形にかまわず直線的に作られたとありました。改めて四ツ木の看板を見ると、梅若塚から国府台まで一直線。ですが、昨年歩いた道ははっきりいって路地です。大道の面影はありません。「日本書紀」などの史料には大道を作ったという記述がないけど、発掘すると直線の大道だったことがわかるとか。奈良から遠く離れた関東にそんな大道を作る権力がどんなふうにあったのだろうか? もっかのところ私いだくの謎です。
奈良時代は班田収授法で長方形の口分田が作られたと学校で習いました。それは関東にもおよんでいたのでしょうか。地図を見ると四ツ木から東の国府台へむかう途中の立石あたりは、街道に沿って縦横が直線の道で区切られています。本所の碁盤の目よりは目が粗いのですが。高校時代、毎日通っていたのに気づいていたような、気にしていなかったような…。川の氾濫でぐちゃぐちゃになるのがこの地だと思っていたのですが、奈良時代の名残なのでしょうか、またまた謎です。
さて今度は東にむかって歩いてみようかと思っています。下総の国府の先は常陸の国府か磐城の国府なのでしょうか。西も隅田川を渡った先は武蔵の国府(府中)か相模の国府(平塚)へつながるのか…。
一万年も廃棄物を管理しようかという現代人なのだから、千年前なんでついこの間のはずですが… 謎ばかり。
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