8月度定例・暑気払いの会 8月8日(木) 浅草・漁眠荘 参加者 15名 司会進行 手塚副代表
川田代表 挨拶 乾杯の音頭 内海会員 美酒を傾け大いに語り合う H1だより86号皆さんに回覧する 参加者全員の発言 皆さん大いに語る 退屈無し大いに盛上がる 最後に半澤会員にて手締め、無事閉会 *但し美女が欲しかった? |
9月度定例会 9月12日(木) 中小企業センター 参加者 16+2=18名 司会進行 鈴木副代表
川田代表の挨拶 1.各分科会報告 1)研修分科会 本年度研修旅行について 2)異グ連 フォーラムインすみだについて 3)新老人の会の話 2.講演会 プロ麻雀士・吾妻さおりさんのお話 (野田会員の娘さん) 3.各会員発言 |
研修分科会 8月度研修会 8月23日(水) 丸勝建設 6名
雑談力の上がる話し方 斉藤 孝著
第1回 全員にて輪読 ドラッカーで見つめ直す経営 (大橋会員提供) 第7回を勉強 全員にて感想を 2.研修見学会について 中間報告 9月度研修会 9月25日(木) 丸勝建設 5名
1.勉強会雑談力の上がる話し方 斉藤 孝著 第2回 ドラッカーで見つめ直す経営 第8回 全員にて輪読勉強意見交換 |
パソコン分科会 なし |
小旅行分科会 なし |
ゴルフ部会 なし |
たけのこ山分科会 なし |
落花生分科会 なし
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ものづくり分科会 なし |
街歩き分科会 なし |
異グ連交流グループ連絡会議 ●異業種グループ連絡会議 ●フォーラム・フェア委員会 H1、議長、代表、副代表3名、各委員2名参加 |
第5回 9月2日 丸勝建設 6名 川田代表進行
1.9月度定例会
野田会員の娘さんの講演について 2.10月フォーラム・イン・すみだ開催について 3.11月度定例会 中村会員紹介の出前寄席について 4.忘年・新年会について 5.各分科会より 6.研修旅行について 10月5日〜6日 第6回 10月1日 丸勝建設 9名 川田代表進行
1.フォーラムインすみだ 10月18日全員申込み済 2.11月 定例会 14日 出前寄席 2名出演 必要物、分担 3.忘年会 12月12日 向島「うなぎの大和田」8,000円コース申込み済 4.新年会 1月9日(木)東向島「千成寿司」決定 5.2013年度研修旅行報告 「東尋坊、古都金沢、白川郷、飛騨高山」 一泊二日 10月5、6日 7名参加 6.26年度物作りフエアーについて 「H1すみだ」何を出すか 7.各分科会からお知らせ 《幹事会》 |
石巻、女川三陸被災地 内海 恒人
八月、月遅れのお盆明けの21日(水)娘と孫2人連れて津波の被災地を慰問もかねて行ってきました。本当は7日(水)に行くはずだったのですが、−−3日頃から左腕に疼痛があり整形外科に行ったら「筋肉疲労ではないか」?、と言われ、レントゲンとって痛み止めの注射をうちましたが、そのうち左手から腕、肩にかけて赤いブツブツが−−5日(月)、慈恵の青戸病院で内科の定期検診日でしたので、外来で皮膚科の先生に診てもらいました。皮膚科の先生はまだ若くて美人の先生で、腕を見ていきなり「帯状疱疹です」。「小さなお子さんには移ります。何日かは安静にしてください」。***アタマきた。 「この症状はどのような時に起きるのですか、」聞いてみた、「疲れとかストレスがたまったときによく出ます」 疲れ、ストレスなんかあるわけないだろう。で、東北は延期した。 孫も小学6年、4年生ともなれば大地震、大津波の被害が甚大だったことを理解している。 毎年夏休みにいろいろと連れて行ったが、今年は被害地の復興を見にゆこうと決めた。孫たち回転すしが好きで、新鮮な「海の幸」刺身が食べられると喜ばせる。 予定では仙台からの仙石線で石ノ巻までゆき、石ノ巻、女川の被災地を回って、帰途松島を遊覧船に乗って帰る。だったが** 仙石線に乗って石巻までと言ったら 「松島から連絡バスが出ていますそれでいかれますか」? 石巻まで行かれないとは全然知らなかった。約5駅間が震災の被害でいまだに不通だという。−−予定変更して松島で観光船に乗った。日本三景の1つと言われ、「松島や ああ松島や 松島や」芭蕉の句で有名だが、他の景勝地と比べてそれほど−−「厳島」、「三保の松原」は昨年行ったがどこも感激するほど響いてくるものはなかった。−−今から60年も前の話だが、養父が近所の同年輩の人達と確か2泊3日で松島に観光に行った。私が18くらいの時だ、東武線で越谷からー栗橋−東北線で仙台−当然汽車ポッポ、そこから先はどのように行ったのか聞いてもわからなかった。松島で3人真面目な顔で畏まってる写真が額入りで床の間に何年も飾ってあった。松島はソコソコの大小の島が湾の中に散らばっており海風にさらされた老松が見事な枝ぶり。観光船からの小島の情景はさすがと思ったが数年前の佐世保の九十九島から比べると?だった。 マ、とにかく60数年前の人達にとっての松島見物は今のヨーロッパ旅行くらいの一大行事だったのかも知れない。養父は熱心な天理教の信者で良く奈良の天理市へ「ヒノキシン」という無料奉仕で1週間くらい留守にしていたのだが、−−なぜ松島へ行ったのかは分からない。 観光船を降りてタクシーで石巻へ、高速道路があるが無料、松島からのタクシーでは街の様子詳しくないといわれて、石巻の駅前で、地元のタクシーに乗り換える。さすがに地元の車、仮設の食品街や食堂などを案内してくれる、丁度昼時だったので仮設街の生鮮の食堂に入ったがイマイチで残念、まだまだ復興は遠い。 女川へ2年前と全く同じ。あの頃はそこかしこ瓦礫の山だったが、さすがに瓦礫はないが、倒壊したビルが3棟があのころのまま無残な姿をさらしていた。湾からの斜面一帯の住宅地跡には今も何もない空き地、ちょっと小高い平地1000 坪くらいかここが女川駅、ここから海に向かって商店街が続いていた。 女川には原発がある、「今は稼働してないが」東電は街に相応の対応をしていたらしい。街の裏山に大きな運動場や、公園、野球場などを寄付したそうで今そこに仮設の町役場と、立派な仮設住宅が建っていた。ここの仮設は3階建で普通のマンション風、他に3ケ所も見てきたがえらい違いだ、ここ避難している人たちは何か理由があるのだろう。も1ケ所、仮設の商店街と住宅を見てきたが人影もあまりなく淋しい感じだ。 街の中心部らしいところに七十七銀行があった、そこの二階で12名の方が津波で犠牲になった、この場所に写真を飾ってあり献花台と香炉が置いてあり花束は多く線香の煙も絶えないという。私たちも線香たてて「やすらかに」と手を合わせてきた。 −−「なぜこのような災害が」と、運転手に聞いてみた、女川まで来る途中波穏やかな海が右手に見える、この辺はカキ養殖が盛んに行われている。「ここは万石浦といい、内海です、湾の入り口は渡波、入り口が狭くこの辺りは地震で多少の被害はあったが津波の被害はありませんでした。女川や、石巻はまともに海に向き合っています」。−−成るほどと納得。 前回行った時にホント大変なことと思っていた駅前通は電気が来てなくて街中ガレキだらけででどうなるものかと?。 魚市場や水産工場に続く海岸通りには大きな缶詰のコマーシャル缶が永く道路をふさいでいた。 現在は魚市場や水産加工場が何社も稼働しているが、いまだ震災前の生産量には追いつけないそうだ。 駅前を見る限りでは津波の被害は感じられないが、周辺では今も被災者の供養の碑がそこここにあり花束が添えられている。そして今も宇都宮ナンバーの観光バスが2台ポランティアの人達が街の美化に励んでいる。 大震災からもう2年半、最近は竜巻や台風の被害など次々に災害が続いている。当然人の目は新しい災害に向いているが、福島の原発による農業、漁業の生産者の避難生活には私たちも特大の思いやりをして上げなければならない。 孫たちにも良く理解させたい。 |
夏の日の思い出@Hすずき
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古代東海道
山下 茂
次の式年遷宮は2033年か。う〜ん、生きてるうちに見に行ってればよかったかなぁ…。 でも新聞の写真を見ると警備官の洋装がなんとも無粋ですよねぇ。今年のは62回目。第1回は1323年前の持統4年(690年)だそうです(伊勢神宮のホームページ)。奈良時代の直前ですね。 このところ奈良時代に凝っています。というのも葛飾の四ツ木で「古代東海道」の看板を見たからです。道は四ツ木から東にむかうと下総の国府(市川の国府台)へ、西は隅田川を渡る所まで案内しています。 昨年の秋に看板の案内そって四ツ木から西へむかって歩きました。すぐに大正時代に掘った荒川(報水路)にぶつかり、四ツ木橋を迂回して鐘ヶ淵へ。駅前の踏切を抜けて昭和時代の防災団地をくぐって梅若塚にたどり着きました。ここまでは看板の案内どおり。隅田川を渡ると石浜神社に「いざ言問わむ…」の石碑がありました。平安時代の在原業平はこの古代東海道を歩いたんだろうなぁ(伊勢物語の東下り)と勝手に想像しました。まだ江戸の町はないから日本橋もスカイツリーの下の業平橋も通ってないでしょうね業平さんは…。 とある本によると、奈良時代の国府を結ぶ街道は幅6〜12mもある大道で、地形にかまわず直線的に作られたとありました。 改めて四ツ木の看板を見ると、梅若塚から国府台まで一直線。ですが、昨年歩いた道ははっきりいって路地です。大道の面影はありません。「日本書紀」などの史料には大道を作ったという記述がないけど、発掘すると直線の大道だったことがわかるとか。奈良から遠く離れた関東にそんな大道を作る権力がどんなふうにあったのだろうか? もっかのところ私いだくの謎です。 奈良時代は班田収授法で長方形の口分田が作られたと学校で習いました。それは関東にもおよんでいたのでしょうか。地図を見ると四ツ木から東の国府台へむかう途中の立石あたりは、街道に沿って縦横が直線の道で区切られています。本所の碁盤の目よりは目が粗いのですが。高校時代、毎日通っていたのに気づいていたような、気にしていなかったような…。川の氾濫でぐちゃぐちゃになるのがこの地だと思っていたのですが、奈良時代の名残なのでしょうか、またまた謎です。 さて今度は東にむかって歩いてみようかと思っています。下総の国府の先は常陸の国府か磐城の国府なのでしょうか。西も隅田川を渡った先は武蔵の国府(府中)か相模の国府(平塚)へつながるのか…。 一万年も廃棄物を管理しようかという現代人なのだから、千年前なんでついこの間のはずですが… 謎ばかり。 |